DJ HIROnyc / ISSUE14

Date : 2009.12
Common Magazine issue14

WORLD Great Persons × DJ HIROnyc

DJ HIROnyc PROFILE

ISSUE14 DETAILS


Mankey(以下M) まずは自己紹介をお願いします。

DJ HIROnycです。(以下:H)たまにBurnin Williamsだったりもします。
詳しくはBlogのプロフを見て頂けると有り難いです。

M ニューヨークに来たのはいつですか?

H 86年ですね。

M それ以前は?

H プラプラ学生をしていました。

M ニューヨークに行く切っ掛けは何だったんですか?

H 当時海外に出て行く人と理由は違って、とりあえず行ってみようっていうか、
まぁ~2、3ヶ月居ようかなぐらいの感じで来たらそのまま気に入り、何気に暮らしやすいじゃんって事で、
そのまま居着いてしまった感じですね。

M 学生の頃からDJはしていたんですか?

H いや、そうでもなかったです。一応趣味でDJみたいな事はしていたんですけど、
まだそこまでDJっていうものが確立されていなかったというか、
先輩DJ達がやっと世間から注目を浴びるような時代だったので、ほんと趣味でレコードを買っていた感じで、
まだ高校生だったんで。本格的にDJを始めたのはこっちに来てからですね。

M こっちで初めてDJをしたのはいつなんですか?

H 88年にマーズというクラブでちょこっとやったのが初めてですかね。

M そこはどんな感じのクラブだったんですか?

H 当時、ニューヨークではNo.1のクラブだったんですけど。
経営していたのが日本人の方でちょっとした僕の知り合いだったんで運良くそこに潜り込めて、
働けるようになり、そのうちDJもちょこっとやらせて頂けるようになりとういうか。

M その時はもうヒップホップだったんですか?

H そうでもなかったです。
ヒップホップを中心にレアグルーブからレゲエ、スカ、ハウスまでかけていましたね。
そんなにジャンルにはこだわっていなかったですけど、自分がこっちに来た当時はヒップホップが
ちょうどメインストリームの巨大産業に成長していく過程というか、一番面白かった時代だったんでしょうね、
その80年代後半から90年代頭っていうのは。
多分その中で必然的にヒップホップ中心になっていったというのが正直な感覚ですね。
日本に居る時はまだ時代的にもヒップホップ一色ではなかったんですけどね。

M 当時好きなDJは居ましたか?

H そうですね。覚えているのが若き日のStretchとかが回してましたね。
まだStretch Armstorongっていう名前じゃない本名で回していた時代でした。
Q-TipがまだQ-Tip & AliでTribeを結成する前にそこのマーズでDJをやっていたり、
Red Alert、あと若き日のKid Capr i、Chuck Chillout、Funk Flexとかっていう有名どころばかりでした。
Bobby Kondersとかもよくやってたし。

M 凄いクラブですね。

H ハウスの日はTony Humphriesとかその辺の大御所が回していたし、
Larry Levanとかもやっていた。そこでは凄く良い体験をさせてもらったなと思います。

M そこは何年まで。

H オープンが87年で、閉まったのが90年ですかね。

M HIROさんもそこで90年まで?

H そうですね。閉まるまで一応経理みたいな事をしていましたね。

M その後は?

H 週5日ぐらいDJをしていたので、97年ぐらいまではず~っと現場に居ましたね。
週4日-5日ぐらいはやっていましたね。こっちだと23時入の朝4時までじゃないですか。

M そうですね。

H 結構体力勝負だったり、今みたいにセラートもないし毎日5箱、6箱のレコードを運びつつ。

M それで生計を立てていたんですか?

H そうですね。それ頃までは現場が全てでしたね。

M それで生計を立てるって凄いですよね。

H 丁度、UptownからPuffyが抜けて、その後、Bad Boyを設立して、
ヒップホップが巨大産業になっていく真っ最中で、まぁそうですね。
Wu-Tangとかその辺のEast Coast Hip Hopが一番暑い時代だったんで、
現場に居るのが楽しくてしょうがなかったですね。

M 97年頃のニューヨークのストリートシーンではすでにRussやSupremeとの
繋がりはあったんですか?

H そうですね、現場でDJをやっていたので、そこでの友達関係というか、そういう繋がりでしたね。
そして僕の昔からの遊び仲間がSupremeとかRuss、Stashとかのディストリビューションを
日本でやっていて、その辺の関係もあって彼らがニューヨークに来た時にご飯を
みんなで食べにいったりプライベートなレベルでの付き合いもあったりとか、僕もDJをやっていたので、
その辺のクルーとかがよくイベントに顔を出してくれるように
なってっていうところですかね。

M 97年以降は?

H その後は98年ですかね、裏原にヒップホップレコード屋さんもないという事で、
昔からの遊び仲間の大村君とマガラ君と一緒にSupremeとかと関わりの深いFat Beatsの日本店を
オープンするといういきさつです。

M その時、ニューヨークでのFat Beatsの立ち位置はどんな感じだったんですか?

H 95年にKIDSという映画が公開されてその中にFeat Beatのオーナーや従業員とかが出演していて、
丁度スケーターのシーンというかSupremeのコンセプトの核になっている90年代前半の文化っていう所が
ヒップホップの一番熱い時期とジャストミートして、その辺の文化がニューヨークのダウンタウンの
シーンの中でごっちゃになって発展していったのかな。
それらの中心になってたのがSupremeやFat Beatsとかのリテイルストアだったんだと思います。

M JazzySport関連の音楽は聴いているんですか?

H そうですね、何気に聴いてますね。世界を舞台に活躍されてるのでこっちでも耳にする機会も多いし。
日本の中でも言い方が悪いかもしれないけど中央に毒されていないし、
地方なりの活動のやり方を提唱出来ているというか。アメリカってそうじゃないですか、
結構ローカル色が強いんで各都市なりのそれぞれの持ち味なんか上手く出ていると思うんだけど。
日本だとなかなかそういうふうに地方発でちゃんと活動出来ている音楽人、
ミュージシャンがまだ少ないじゃないですか。
だから盛岡のジャジスポとか仙台のGAGLEとか北海道のTHA BLUE HERBとかは
リスペクト出来るし共感も持てますよね。やっている事もすばらしいし音楽の質もクオリティも高いし。

M 地方のミュージシャンがデビューする為に東京、大阪に行く状況をどう思いますか?

H でもね、その、もうちょっと深く突っ込んだ音楽の話をすると。
最近パッケージCDとかの流通経路が昔と大きく変わってきてて、
昔よりメディアの力も大きく変わってきていると思うんですよね。自分でもネットで情報発信出来るし、
そういう意味でインターネットダウンロードが販売の中心になってくると、
地方で活動していても中央で活動していてもほとんど差はなくなってくると思うんですよ。
これからどんどん、どんどん。だからクオリティの高いものさえ作っていれば活動の場所はどこに居ても
関係無くなってくると思うんですよ。多分これからそいういう人が増えてくると思うし、
逆に増えてこないといけないと思う。昔みたいに音楽を作るのにお金もかからないし、
コンピューター1台あれば誰だって音楽なんて作れちゃうんで。
だからそういう意味ではクリエイティビティだけの勝負にどんどんなってくると思うんですよ。

M 確かにそうですよね。そうならなきゃいけないですよね。

H そうですね。音楽がそういう意味では一番そういう事には向いているのかなって気がするんですね。
やっぱり実際にその、洋服とかになるとモノを売らなきゃいけないってことになるから、流通が東京、
大阪中心にどうしてもなってくると思うし。
展示会だって東京、大阪に出て行かないといけなくなってくるしね。
その辺、音楽は発信しちゃえば基本どっからでもいいわけですからね。

M アナログとかPCなど自分の中でこだわりとかありますか?

H ん~。ないですね。どうしても便利さにとか、その辺には勝てないですね。
音の良さだけ追求していけばアナログでいい環境で良い機材でってなっていくんでしょうけど。
なかなか現場とかすべての移動、相関性とか考えていくとどんどんテクノロジーに対応していかないと….

M 移動って結構でかいですよね。

H そうですね。それって音楽だけじゃなくて他も全部そうなんだろうね。
まぁ、だからこそアナログにこだわっている人はそれなりの重みが出てくるんでしょうね。

M 実際、今はアナログは買っていないんですか?

H いや、昔程ではないんですけど、買い続けてはいるんですよ。
だからアナログがなくなる事はないと思うんだけど新譜のリリースの量があまりにも少ないからね….

M アナログに限るんですが、DJしてると溜まるじゃないですか。
そのアナログってストックするだけじゃなくて、放出したりもするんですか?

H 特に新譜で12incのシングルとかになると、レコードそのものの寿命が多分3ヶ月、
半年とかじゃないですか。もしかするとバッグに入らなかったり、
一生聴かなくなるようなレコードとかあったりっていう。
そういう何かね、消費の仕組みも手伝って、多分現場では99%セラートじゃないですか。
だからその辺は逆に遊びに来ているお客さんに聞きたいですね。どうなんだろう、
気にしてんのかな?音が良い方が良いとか。
多分アナログの音でずっとクラブで大きいボリュームで聞いた事ない人が多分いると思うんですよ。
もしかしたらセラートの音が当たり前だと思っているかもしれない。
大ボリュームでMP3を聴くのが当たり前になっているというか。

M HIROさんは現場でどんな曲をかけるんですか?

H 基本は何でもかけますね。軸になるのはヒップホップなんじゃないかなって思うんですよ。
ただ他の音楽をかけるときも自分のヒップホップ的なかけ方でかけたいなって思いますね。
もともと自分は80’s好きだったりロック好きとかスカ、
レゲエ好きだったりっていうバックグランドがあったりするので、
その辺はやっぱ新譜のヒップホップとかニューヨークスタイルとかそういう事にこだわらずに
自分なりの色が出せればなって思うんですけどね。
だからなんか日本に帰ってDJする時にニューヨークスタイルって言われたりするんですけど、
それは今の若い人らが十分受け継いでくれていると思うので、僕は自分なりのいぶし銀な
ニューヨークさが出せればいいなって思っているんですけどね。何せキャリア+滞在期間は長いんで。

M 僕らの頃って色々探さないと欲しい情報が手に入らなかったじゃないですか。
でも今って全てインターネットじゃないですか。

H そうだよね。自分で何の努力もしなくても、パソコンの前で1時間も居れば、
そこそこの情報は手に入るじゃない、だからこそ本人のどの情報を自分の中で身につけて捨ててっていう
センスがますます重要にはなってくるんだろうけどね。そうだね。それは凄い思いますよ。
多分昔はもっと色んなモノを苦労して手にしなきゃいけなかったから、
その苦労する過程で他のモノを見つけたりとかね。多分色々あったよね。
昔は一生懸命探して写真とか見つけなければそういうモノを感じれなかったけど、
今はワンクリックで見れちゃうんだからね。

M 日本でDJをやっている方に一言お願いします。

H 今の時代、誰だってDJになれちゃうじゃないですか。
レコード買わなくてもいいから始めるのも続けるのも楽なので、
自分の着地点を見極めた上で活動していかないと一生趣味で終わってしまうというか、
本望ではないというか、これを仕事に繋げて行くには自分なりのフォーマットを見つけて
活動していかないといけないんじゃないかと思いますね。僕も頭にDJとは付いていますけど、
最近は活動の幅広がりすぎて困ってますよ。半分はスポーツ評論家でもいいくらいですね。

M (笑)

H 言葉にするのが難しいんですけど、大工や漁師とかと違ってあんまり歴史の長い
職業ではないじゃないですか。
だからみんながそれぞれ模索しながら、それぞれのDJのあり方を追求しながらやっていると思うんですよ。
だから自分も続けていきながら、気がついてみると、
あ~人生DJだったなみたいなのが理想なんじゃないかなって思うんですよね。

M HIROさんはストリートカルチャーに精通していると思うので、
日本のストリートキッズに一言お願いします。

H テーマでかいですね。さっきも話したんですが情報が溢れているので、
それぞれ本人のセンスを信じて自分の中で身にしていく情報と聞き流す情報と見極めていくことが
凄い大切だと思うんですよ。だから最終的に自分の中にあるモノしか表に出てこないと思うし、
今まで興味がなかったモノとかにも目を向けて、
情報に流されないように自分なりのスタイルを築いていけばいいんじゃないかと思いますね。

M 最後ですが、現在不満に思っている事をどうぞ。

H 色々ありすぎるので、ネガティブ発言控えときます。
ただ不満に感じた事をその都度言葉にして伝えるリアクションの良さは自分でも
New Yorkerになったなと思います。

LES since ’86. by Burnin Williams


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